mardi 29 octobre 2019

下層民の群衆。

      同じ最初からは一つ事に心を向けるいいでしょう。類人猿から人間の進化とチャールズ・ダーウィンの理論の他の側面の大多数は実際にただの推測が、科学で証明された事実ではありません。しかし遵奉者行儀の相似は社会的動物の全く多様な種にそして哺乳類にだけでなく観察されるです事が出来ます。大勢順応の本能は効果的にや故障なし機能します。群れの一つメンバーだけが危険を見かけて恐れるのためにそれは足ります、そしてこの恐怖はすぐ全体の群れに伝えられています。後の行儀は危険の種類に依存します。群れは逃げるそれとも対決するのためにポーズに立ち上がります。私達が100年の期間を鑑みたら、進化は全然観察しなくている、そしてこの本能は何かを害する事ができない、害するのために何かがではないからです。動物の群れで遵奉者行儀が強制を全然含んでいない事実を鑑みる不必要な事はではありません。誰もは心を群れから離れた個体に向けらないさえそれを見かけません。そして原始人の行儀は、私達が知らない彼の実際の起源に関係なく、無さそう社会的動物の行儀とあまり異なる事か出来ませんでした。
          原始の状態から私達が文明と呼んでいるあの社会的な状態まで段階的な変化の説明にページの巨大数量を捧げる事が出来たでしょう。この状態は既に数千年間続いています。野生の状態から文明の状態までこの変化を近代的な視点から調べて記述する熱心な人がだ事はさえ可能です。この研究から何か利益がでしょう可能性がです。しかし私達が過去に戻って私達の訂正を加えるのために私達はタイムマシンを持っていません、そして最も可能性がそれはいいです。それはいいだ、自然な出来事に介入が変わらず良い何かに導きませんから。しかし私達は起こられた事実を観察しています。私達は丁度文明の形成されたこの世で住んでいる、そして残念ながら、私達は大勢順応のすっかり維持された本能と生きています。みんな人は自分の運命に自分の訂正を加える事が出来ている、そしてみんな人はそれをするのために自由なです。そしてこの理由から、私達はあの私達がこの時代で生まれて来た社会と文明を考えます。既に数千年存在している文明について話しましています。
          一例として、関係なくこの文明の歴史のどんな期間を取り上げましょう。正当性のように、社会関係の面白いアスペクトの同じ形は観察されるです。それは対決の先進個人と無知の群衆先進個人と無知の群衆すなわち下層民の群衆の模様です。
          イエス・キリストは迫害された預言者と人類の先生について福音書で何度も言及していました、そしてようやく彼自身は同じ迫害の被災者となった。一見したところ、彼への信じ始めたその人類の部分は、つまり神へのように信じるキリスト教徒たちと預言者へのように信じるムスリムたち、あたかも未来のために教訓を受けて正しい結論を出すべき。しかしすべての時代と国の群衆は常にすべての事を彼らのやり方に捻っています。この場合も世論が形成された、あたかも猶太人々はキリストを迫害に対する有罪いたでしょう。あの時代に実際にイエス・キリストが下層民の群衆に迫害されませんでしょうそんな国と民族はいませんでした。猶太人々を責めた他の民族自身はもっと賢くて気高いだったその人々を未だ迫害しました。下層民の群衆は歴史と発達を進めた人々を迫害しました。歴史の転換点だったルネサンスではヤン・フスやジャンヌ・ダルクや他の多くの素晴らしい個人が魔女狩りのように火あぶりの刑に処されました。この対決は歴史の皆転換点で悪化していた。
          この対決は20世紀に今までなかったのように増えた。「私は父の名によってきたのに、あなたがたは私を受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう」。(ジョン5:43)。キリストのこれらの預言的な言葉は叶いました。そしてかれらはその人を受けいれた。そしてかれらはレーニンやスターリンやヒトラーを受けいれた。かれらは地球に地獄を作りつもりであっていたが、人類は闇の勢力とのこの戦いに勝ちました。下層民の群衆は流血の独裁者たちに恭しく屈して拍手して絨毯を敷き詰めて彼らの根拠のない約束を信じていました。悪は一目で全能がですが、弱点があります。第一の弱点:悪の勢力は互いに平和に留まる事が出来ません。第二の弱点:虚言の人生は遅かれ早かれ経済に害を齎します。この二の要因は丁度人類を救いました。
          今私達は中世の後期つまりルネサンスについて思い出します。技術的なだけでなく、社会的なも進歩の最初は丁度その歴史の瞬間に築かれました。体制の要素つまり下層民の群衆の人の心理を要するに言及するのためにそれは時間です。
          群衆の各人は気味悪い事のように世論に抵抗する事を見なしています。彼は単独で考える慣れられないです。彼は同じ開発された脳髄を持っていますが、彼はそれを使っていません。だからこそ、単独で留まる事は彼に辛くて酷いです。逆に、彼が群衆でいたら、この群衆の援助は性的な本能やさえ生存本能のようにそんな力強い本能を減る事が出来ています。ロシアの格言は存在しています:「死さえは社会で美しいだ」。(На миру и смерть красна)。彼が一緒に群衆と危ない場所に行っていたら、群衆の同じ存在感は彼を和んで眠らせっています。誰かが倒れたら、彼に起こることにはなりそうもない。群衆が未だ行っているから、そして行ってもいいです。もちろん彼はそう思わないが、彼はそう感じています。こうして、彼は努力を彼の本能を勝つのために巨大な必要としない、大勢順応の本能は彼を助けますから。彼が思って考える始めたら、彼は彼が欺かれる事を理解したでしょう。彼はたくさんのものがよくないだそして彼のここに滞在が不合理なです事を理解したでしょう。しかし彼がそう思わなくてそう論じないから、彼は何か悪い遊びでポーンのように彼を使う許しています。
          群衆の一人が危険を感じないこの様に、彼はの様にそれをすっかり認識しなくて任意の悪を犯す事が出来ます。これをして、彼が疑い始めたら、他者に見てみるだけで十分です。彼らが彼を責めなくてが同じ事をしていたら、彼は既に自分を正当化されたと感じています。深く潜在意識に隠された悪の本能は飛び出す、そしてすべての可能な結果は行なわれる事が出来ます。下層民の群衆の勢力は実際に大きな勢力ですが、それは理不尽なそしてあたかも盲目のです。悪魔の人々はそれを使っています。
          そのときどうやって前述の財政的な社会的な進歩を説明しますか。僕はさえそれが社会的だけではないが社会的道徳的な言ったでしょうそしてそれはもっと正確にでしょう。しかし「道徳的な」言葉の意味は過去数世紀の間にとても減って歪られた。今この言葉の意味は最初に築かれた事を意味しないが、すべての事を禁じるのために下層民の群衆の傾向意味します。「道徳的な」言葉の意味は自由で正しい純粋の代わりに今くびきで偽の純粋を持って来ています。それも愚かな群衆の意見に従順を持って来ています。私達が「道徳的な」言葉を放棄したら、一緒に「社会的な」形容詞と「進歩」言葉はもっと肯定的な概念を包含する、私達は進歩については話しているから。私達が退化について話しません。僕は今私達は逆説を説明される準備ができている事を思い出させています:下層民の群衆は全体の世界で支配しているが、人類は中世の不振から飛び出して進んでいます。どうしてそれは起こっていますか。
          間違いなく、例外なくどの国でもは下層民の群衆が深く考えなくてが確立されたパターンに従って住んでいます。このパターンは伝統と呼んでいます。重大な間違いはなかったでしょう、私達が彼らの伝統が偶々形成された考えを許したら。つまり伝統は何分の国民が経験した境遇のでたらめな一揃いの結果のように形成された。今比較が十分な有効なです:国は地理的な場所や天然資源とラッキーある(又はラッキーではない)事が出来る、同じように私達は形成された伝統と運勢又は悪運について話す事が出来ます。この様に、非社交的ある事又は家族や同じ興味を持っている友達と締まる事つまり社会を無視する事はすべての国で非難されたわけではありませんでした。それは一部の個人たちに社会で抑制なし発達する機会を与えたそして進歩のために彼らの発達された可能性を適用します。すべての世界の宗教の教義に反して市民たちを奴隷に変える伝統を持っているそれらの国に、強制的な集産主義の伝統と人格の完全なコントロールの伝統は形成されました。これらの国の伝統が個人の自由に変えるまで、これらの国は中世で留まる。さもないと、百万人の囚人の奴隷労働又は巨大な領土又は天然資源の過剰又はさえ軍事目的で発明を盗む事は決して彼らを助けません。
          丁度それが実在の道徳です個人主義の慣習は個人の自由と真実と人間を愛に向けられます。この慣習が統べているそれらの国は過去数世紀に解決できないように見えていた問題を解決し成功しています。それらは民族差別と人種差別の問題や貧乏と栄養失調の問題や数世紀の間に正しい基督教を歪めていた道徳の優性の問題でした。この念頭が不活発ではありませんでしたでしょうのために神は人間に念頭を付与しました。伝統で生きていて自分の頭で考えなくていた人は人が健康な足を持っていてが松葉杖をついて歩いている同じ事です。松葉杖を投げてそして自分自身の足で歩いて下さいよ。あなたの歩き方が同じだったら、それはいいです。それの後あなたの歩き方が変えたら、それもいいです。この歩き方があなたのだったでしょう事は主な事です。あなたの行儀が周囲の人々の伝統を含まれたら、心配する事はありません。あなたの行儀が社会の伝統を超えたら、あなたも心配しない事が出来ています。この場合でだけはあなたを受け入れたでしょう別の周囲の人々を探すより良いでしょう。あなたが自由な留まるのためにあなたは人類の進歩を気にする必要はありません。自分自身の個人的な進歩を構うのためにより良いでしょう。自身をのように個人実現してのから、あなたは既にその事で全体の人類がより完璧になるのを手伝う、そしてこの事は足りています。何ももっとが公益のためにあなたから要求されません。あなたが下層民の群衆の部分といてつまり体制の歯車といる止めたら、全体の人類がですから真実の光に少し動た事実を疑う事が出来ません。
          この作品を「下層民の群衆」で題して、僕は何かカースト又は等族国家を全然意味しませんでした。カーストや民族の偏見を持つ人は下層民の群衆の典型的な代表者です。浮浪者や科学者や国家元首や誰でもは下層民の群衆の代表者となる事が出来ます。誰であれも自由な個人となる事が出来る、そして歴史的経験は自由な個人とどこであれなる事が出来る事実を開示した、さえソビエト連邦や中国や北朝鮮にのようにそんな大勢順応と奴隷制の国家にです。群衆の状態から出るのためにお金を必要と自分の等族国家を偽造する必要と信仰を変える必要はありません。(のにすべての人類の先生と預言者たちから発した宗教は誤って多様なですが、これら人々は同じ事について話していました。それは個別の本が必要です大きな話題です。主が許したら、程なくその本は書かれる)。誰もは実際にあなたを群れのように心の状態に抑制する事が出来ない、神以外誰もがあなたの思いを見抜く事が出来ませんからです。過去にあなたが下層民の群衆の代表者とだった事に恥ずかしくて取り返しのつかないものではありません。すべての人々はそんな状態にでした、彼らが既に幼年期で社会と交わりを持っていたからです。群れで留​ま​り​た​い事だけが恥ずかしいものとなる事が出来ます。あなたが誰となる事はあなた自身の選択だ唯一の要因に依存しています。あなたが下層民の群衆の部分といる止めるのために唯一の必要なものです事は自分の頭で考え始める。初めもあの考えがあなたのですか又は誰か他人があなたにこの考えを押し付けた事を検査するいいです。未来にあなたが自分の頭で考え慣れる時に、自身を検証の必要性は存在しませんでしょう。
          こうして、すべてがあなたの手にあります:自分の生活を嬉しくて面白いものにしてしまう(そして経験は生活もさえ厳しい状態でそんな嬉しくて面白いと留まる事が出来る事実を開示した)又は悲惨と無意味な存在で留まって悪運を持っている:悪魔の他人たちの遊びで捧げられたポーンとなります。
          野生の人々の群れをそう助けたから、昔々とても便利な役に立った大勢順応の本能は文明の状態への通過後命を損なう毒となっています。火のようにこの本能は悪がではありません。火は暖めて照明する事が出来ているが、火がその場所の限界を超えたら、例えば、蝋燭からカーテンまで広がり始めたら、明白な悪となっています。大勢順応の本能は文明の世界であらゆる有害な事柄の根となっています。文明自身は悪がではありません。人類はただ文明の道で行れる準備ができて行きませんでした。この道に踏み込んで、すぐ群れの考えを拒否するいいでしたでしょう。
          僕はこの記事をお気に入りの引用で完了します。アレクサンドル・ゲルツェンは『向こう岸から』(第7章 omnia mea mecum porto 私のすべてを身につけてゆく)本で書いた:「この本で説明書を探さなくて下さい、彼らが本にではありませんから」。しかし彼が自分自身がそのとても重要な説明書を与えた事を見落とした事実ははずでした:
          [人々が世界を救い代わりに自分自身を救​い​た​か​っ​たらでしょう、人々が人類を解放代わりに自分自身を解放したかったらでしょう、世界を救いと人類を解放のために彼らはとてもたくさんをしたでしょう。]
          自分自身を解放するのたねにあなたの願いだけは充分な要因です。

英語で同じもの The same in English: https://www.proza.ru/2012/09/14/1669

元のロシア語のテキスト The original Russian text: https://www.proza.ru/2010/06/11/588

dimanche 27 octobre 2019

適用のために基礎。

          全体の近代的な哲学の基礎はすべての人々知ているルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」格言です。しかしこれについては話すつもりはありませんが、近代的な現実とかなり近代的なはない現実に適用されたことが出来るもっと特別な事例。
           純粋な理論つまり実験検証なし理論は時間が経つに間違いを蓄積して弱いとなって崩れます。純粋な理論づけは近似値計算のように機能している:間違いが蓄積しています。彼らは参照データが正確のように見えて疑いを挑発しないにもかかわらず蓄積します。
          想像して下さい、あたかも誰かは不合理なデータから発する理論を発展したでしょう。例えば、あたかも地球が立方体の形をもっています。そんな哲学の歴史がどんなでしたでしょうか。これは競合することができなかったでしょうそして既に忘れられたでしょう。そんな理論がさえ今日まで存在することが出来たら、読者たちを楽しませて楽しむ事だけのためにです。いいえ、不合理な参照データを持っている哲学がではありません。
          すべての哲学は説得する事のように見えている、木の幹と主な枝がはっきり描かれるのようにです。そして二次的な枝と全く小さい枝はそんな木に付与されている。それはだんだん簡単に迷うことが出来る密林になっていまう。すべての作成者は確かに彼の作品賞賛している。賞賛は聞かれています、例えば:「カール・マルクスの哲学は全能のだ、それが正しいですから」。
          人はそんな木のすべての小さい枝を勉強して、全体の人生を浪費することが出来るが、どんな木が正しいです事を死まで分からなくて。(もちろん、生活の時間が足りたらでしょう)。しかし彼があの木の果物を味わったら、そのときだけすべては明らかになります。
          そんな質問に心を向けって下さい:タマゴテングタケが有毒なです事実は理論でだけ確証されたことが出来ますか。きっと誰も未だこんな仕事を始め冒しませんでした。しかし私達は食べるのためにタマゴテングタケを選んでいません、毒を盛られる人々の辛い経験を知っていますから。
          たまたま、先行する世紀が認識と実験の世紀になった。マルクスの哲学の実験はほぼ完璧な行われました。実験のために沢山の国家取られました。彼らは多様な宗教や多様な心理や多様な発達の程度や多様な収入の程度を持っていました。社会主義の集合も多様なで、さえドイツのナチズムを包含して。今マルクスの哲学が地球の天国を創りしたでしょう国家又は地方を見つけて下さい。しかし安くて役に立たない製品で全体の世界を欺いて経済的に成功した中国について話さないでくださいが、マルクス主義が理由で全然ではありませんでした。結論は明らかだ:共産主義の考えが毒です。共産主義とナチズムが全体の革新的な人類がゴミ捨て場に投げた毒です。イデオロギーの次元から一番低開発諸国だけは浮浪者のようにゴミ捨て場からこの死肉を取り出して味わっている。今独逸はいくつかのフューレルなしも祖国や国民の偶像にいくつかの崇拝もなしが、素晴らしくて自由な発達した国となった。敗者の国だけのほとんどの人はスターリンやレーニンやヒトラーを夢見ています。
          私達は幸せな時代で暮らしている、最後の数世紀の期間中人々をそう魅惑していた有毒な果物が開示される時にです。この知識はとても高い価値で得られた、この価値は数1000万人の命です。あの時代の辛い体験から受けられた悪い習慣を取り除くのために十分な勇気を持っていない人々や考えなくて彼ら自身を欺き去っている人々は未だ歴史の暗い瞬間のすっぱぬかれた偶像に崇拝していて共産主義とナチズムの悪魔の当局に仕えている。時々彼らは共産主義と基督教を不合理な対比し試みている。私達はここで一基礎に来た。
          キリストは社会の上に個人の利点について伝えていました:「人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである」。ルカの福音書(6:22〜23)。
          ここには実用的な現実の共産主義がすっかり異なる勧めを与えます。あたかも単独の人が無価値ですが、一緒にすべての人々が偉い力でしょう事は多すぎる押し付けられる。一度一ロシア政治家「チェルノミルディン」はこの偉い力が齎す結果について言った:「私達がより良い事を欲しかったが、判明した常にのようにです」。しかし事はこの様にだけ常に判明する、それが自然な正当性ですから。群れの法律が支配している、個人主義が迫害されているそして主導が抑えられている場所では、健康的な何かが作られる又はされる事を期待しなくて下さい。それが製品でしたら、それは競争を生き残りません。それが一隊でしたら、それは素晴らしい講談師クリロフの「四重奏」によく似ている:「友達たち、あなたたちが座っている秩序は重要ではありません。あなた達は悪い音楽家ですにもかかわらず」。ここには大きな理論を発展する必要がではありません。良い事例が先進と繁栄の西洋国々にでしたら、何のために理論ですか。集産主義ないが個人主義は彼ら国々で統べています。あそこには個人が社会を支配しているが、逆にがではありません。これは現実の主な基礎そしてこれを記憶する事が難しいではありません。
          二番の基礎は永遠の価値です。これが神と恋と真実と自由です。これが正しい価値です。社会は彼らに対する偽価値を押しつけている。あれが「祖国」や国民や国家や組織や政党。この話題を勉強して、思考の惑わすことが出来る流れを使わないより良い事がでしょうが、実用的な事例を使う。英国には「祖国」の概念が全然ではありません。ラジオ局ビー・ビー・シーはある日ではっきりこの事について発表した。イギリス人と米国人が彼らの国を愛していたら、彼らは何に対する愛する理由を持っています。それらの誰かが彼の国を失くしたら、彼は自由と彼を守る法律と彼の能力を自身と自分の家族と周囲の人々の利益のために適用する機会を失くする、つまり彼はすべてを失くしましたでしょう。しかしロシア人が彼の国を失くしたら、彼は何を失くしたでしょうか。それは彼が養っている無能な公務員の巨大数ですか。それは罰を受けなくて給与を時間通り支払わない雇用者ですか。それはほとんどの場合彼を守らない警官たちですかが、ある日彼らは彼を彼が犯さない犯罪に対する投獄することが出来るか。それはある日政治的な裏工作のために彼の家を爆破することが出来る悪党たちがですか。それは彼の息子を「カフカスを治める」のために無理矢理送るあの悪党たちですか。しかしこれは集団虐殺や戦争犯罪を犯すそして結局これに対する命を失う事を実際に意味している。しかし自尊心あって自由な人となるのために彼はあまり必要ありません:ここに記述される悪い人々は実在の彼の敵や彼の国を1917年で壊した侵略者です事を悟るだけ。今彼らはこの国の腐敗した死体で喜んで太っているそして彼らが強制的に崇拝させている「祖国」は彼らの自分の犯罪を正当化する悪魔的な偶像。こと偶像はあの詩人エセニンが詩を書いた祖国と関係を全然持っていません。ヒトラーも祖国を愛し要求していた事実を思い出させる事は不必要なではありませんでしたでしょう。国民を愛する事もあそこに行なわれったが、後私達はそれについて話す。ソビエトの愛国心の味方が彼らも愛国者たちだ西洋について話している事実を思い出させる事は今不必要なではありませんでしょうが、それはあまり事実ではありません。彼らは実際に他愛国者たちですから。西洋諸国では、国家は人のために作られるが、人は国家のために作られません。のにソビエトの空論家と愛国心の教育者たちは国家の利点を押し付けています。どれか米国人に、誕生の瞬間から彼が彼がアメリカに永遠の借りがある事を押しつける試みて下さい。あたかも、彼も何をしようともが、彼は永遠の債務者と留まる。思う、彼はあなたが狂い始めている事を考えなす。自分の国を愛する事は悪いものを全然含まない、何かに対するこの国を愛する事があったら。しかし人を嘲って迫害している国家を褒める事はこの国家の奴隷の賞賛や奴隷の心理の指標です。
          国民の概念は僕の「山国」で記述されたが、現実の出来事を鑑みて、国事のあそこで考慮されなかったもう一つアスペクトを無視してはだめです。はい、国民が群衆です。国民と永遠の価値を等しいと考慮してはだめです。個人の国籍も有罪又は価値又は誇りの理由となる事が出来ません。僕はここでソビエトの又はネオソビエトの体制から分れた国民を解放について話しています。今そんな解放は僕が支えるだけことが出来るオレンジ革命と呼ばれています。ウクライナはすべての奴隷にされた世界の国国を解放する事が物理的に出来なかったでしょう。例えば、中国や北朝鮮やキューバを。 ウクライナはウクライナだけを解放する事が出来る、そして部分的にではないが、すっかり解放します。
          そしてここには価値のよくない配置の危険が隠しています。自分の国民解放する仕える人々は国民のためにないが自由のためにそれをしています。彼らは各人が一人一人自由なとなったでしょう事のためにそれを最初にしています。各人は自分自身と自分の霊的に又は親族で親しい人を解放する事のために解放の過程でそう行動していますが、何か発明される国民に存在しない負債を支払う債務者が全然いません。
          民族間関係の機械が複雑あまりない。それは比較的に易いそして国事について哲学の密林を作る必要ではありません。最初に、簡単な 規則を記憶する事が足りる:私達が人を精通しなくてが彼の民族を知っていたら、彼の未来で行儀の確率だけについて話してもいいですが、私達は民族で人を判断する権利を持っていません。知らない人に対する唯一否定的な態度が不信ですが、それもこの知らない人の民族に依存しません。しかしこの不信は全然侮辱的なと見えてはだめです事のように、扉に錠と窓に警報は侮辱的なと見えていません。
          民族紛争は人々が友達となって同じ敵に対する対決する事が出来たでしょうその人々を口論に巻き込む事が出来る悪である。人類は民族紛争を支えるそんな経典を持っていません。しかし主な悪は自分を解放する目的があるくびきの代わりに、国民に奉仕する新しいくびきを押し付けられている事で成り立つ。そして動きは個人の上に群衆の利点の方向に起こっている、国民が群衆ですから。時間通り止めなかったら、それは余儀なく全体主義に繋がります。
          社会の上に個人の利点は群衆の上に当局全然ではありません。どれでも暴君はこの群衆の部分ですからが、彼がこの群衆で上又は下の地位を占めて居ようともです。より良い地位は群衆の上にではないが群衆の外です。物理的に群衆の外いる事は余儀なくではありません。精神的な隠遁生活は意味される。つまり、自分自身を意見をもっていまして、自分自身の発達を止めないのためにその群衆の概念で判断しない必要があります。それももっと開発して、群衆の概念を無視して、もっと完璧なとなります。それとも、自分の価値体系について群衆の人々を全然知らせません。
          それは丁度同じ西洋の基督教の個人主義がでしょう。そして基礎はここに記憶するのために二つ事だけです。第一の基礎が社会の上に個人の利点です。それが正しい基督教です。個人の上に群衆の利点事が悪魔の全体主義に導く悪です。
          二番目の基礎は解放する正しい価値です。これが神と恋と真実と自由です。奴隷にする偽の価値は祖国と民族と国家と組織と政党です。
          あなただけがこれら価値中で選びます。あなたの代わりに誰もはこの選択をしません。

英語で同じもの The same in English: https://www.proza.ru/2012/08/29/806



元のロシア語のテキスト The original Russian text: https://www.proza.ru/2010/05/26/977