mercredi 20 novembre 2019

永遠の命と永遠の死の問題。

          疑いを引き起こさない一例で始める。誰かは故意で自分の運命を犠牲にして、例えば、自分の人生を数年間台無しにする事が出来ますか。特別な場合にだけ、彼がを2つの悪の小さい方を選び押し付けられる時にです。例えば、奴隷制で留まるか自由のために死ぬ時に、彼は第二の事を選ぶ、彼を奴隷にしたい大敵との最後の戦いに参加して。そして彼が意識明瞭でて正しく行動したら、彼は最大の害を敵に齎すのために自分の行為そう計算する。もちろん、奴隷制を避けて闘争を続ける、自分の未来を犠牲にしなくて第三の道が存在したら、彼は丁度この三の道を選ぶ。誰もが酔わなくて激しなくてあまりに意識明瞭でだったら、彼は決して彼の未来に不注意にならない。彼は道を短くするのために3階の窓で出ない。彼はすべての人々の面前に通行人を殺しない、この通行人が彼をよくなく見えた事ように見えたから又は彼が何か馬鹿げた事を言ったから。
          精神的に健康な人は自分自身の運命に対して無感動を感じている、厄介事又は過酷な試練が今又は6か月後起こらなかったらが、これは20ー30年後に起こる、例えば。こうして、死の後自分自身の運命への無関心は単に来世の不信心でだけでなく説明される事が出来るが、それも遠い未来で叶う厄介事を軽んじる人間の心理的特性によってです。この厄介事がさえ不可避だ場合でです。この事実は訪れる寺を信徒の年齢ではっきり確証される。人々の生涯の終わり近くになってほど、私達が彼ら間見る事が出来る無神論者はより少なくです。若い年齢にが、致命的危険な状況では無神論者の数量もとても減っています。
          私達は未来に運命への人間の態度心理を要するにが包括的に考慮する好奇心から全然ではない必要がありました。私達はこの心理のとても重要な質問に来た:ほとんどの人々の信仰は悟られてどれくらいですか。全体の人類が唯一宗教を公言したら、すべではとても簡単がだったでしょう。しかし基督教に古い信者だけは数百の異なる教義を込めっている。この事実の詮議が思慮深いだったら、 避けられない質問は生じます:どうしてほとんどすべての宗教団体の信徒たちはあたかも彼らの宗教だけが正しいだったでしょう、あたかも彼らだけが救われるでしょうが、すべての他者は地獄で燃える又は神の恵みをなくすまたは他の損害を受けますか。彼らの教義は多分もっと納得させる事と見えているか。しかし私達が彼らの相手たちの寺に来たら、他の人々の教義がより少なく納得させるとように見える思いません。もちろん、両側に価値体系を調べる事が出来ます。あなた達がそれを試みると、これは既にされた事を見ます。各組織は生存のために争って(この事実に心を向けって下さい)自分の哲学の納得させる基礎を造った。しかし哲学のどれでも複雑な体系は哲学で検査されない事となっているが、実験だけで検査される事です。この事実は確信をこめて僕の「適用のために基礎」記事に見せられました。
          心から信徒が彼の主が彼を授けた能力を適用し始める時につまり彼の信仰は悟られるとなる時に、前述の事実への反応はどんなですでしょうか。彼はうろたえると思われます。数千の互いに打ち消している教義はです、そして彼は数千の正しくない教義から唯一正しい信仰を選ばなければならない。彼が間違ったら、彼は地獄で永遠に責め苦に遭う。終身刑は行楽地のように見えたでしょう、地獄を対比したら。聖書とコーラン も先祖の信仰から正当化の可能性を否定しています。問題は実用的に解決できないとなっています。しかし慈悲深くて公正な神はかれがすべての天使の上に置いた人間 にそんな未解決の問題を設定する事が出来ましたか。もちろん いいえ。
     実は事柄がそう行なっていました:預言者たちと人類の先生たちは違う世紀でそして違う国民中で現れていました。すべての彼らは人々に同じ真実を教えていました。しかし説教の文体の水準はさえ異なっていました。例えば、イエスとモハメッドは一般の人々が理解していた文体で説教しましたが、ガウタマ・シッダールタ(仏陀)は王子でもっと複雑の概念を使用していました。私達は説教の多様な水準と多様な国と多様な時代を見ていますそしてこれは多様な版なし起こる事が出来ませんでした。 時の権力者は自分の目的のためにこの多様な版を使い努めていなした。彼らの目的は常にではない全然気高かったです。イエス・キリストが盲目的に信じなければならない完了された教義と来たらでしょう、彼の言葉「捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」は不必要あったでしょう。彼は社会が任意生きている真実をデッド教義に変える事が出来る事を分かって知っていました。だからかれは社会の意見を無視する事や恐れなくて探す事を勧めています:「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」。(マシュー 7: 7〜11)。司祭たちと他者の道徳を教える教師たちは本当にそれら福音書の言葉に対する反逆しています。彼らは彼らの助けなしが、真実を単独探し努めている人々にすべての罰を脅かしていなす。ほとんどの場合では彼らが彼らの「権威」ある意見無視する危険を丁度示しています。彼らも「浅い経験から」悪魔の獲物なる危険と探す人が自分自身と二人きり判明する危険を示しています。あたかも彼ら自身は精神的にや霊的に至高の生き物たちといましたでしょう、そしてあたかも誰もは彼らの水準に達する事が出来ませんが、あたかも下層民の群衆と時の権力者が彼ら自身と同様に権威と認めて場所と肩書きと司祭免許をあげるそれらの人々だけは彼らの水準に達することができましたでしょう。しかし人間が単独求めることを恐れてはいけません考えは前述の福音書で言葉で明らかに示されます。人間が世論と権威たちの意見を無視したら、彼は自身と又は悪魔と二人きり残りません。イエス・キリストの言葉は丁度社会と権威に反されますから:「もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」(マシュー 15: 14)。
          神に希望と神の保護と助けだけそして精神能力と直観のように神の賜物だけは人間を保護して悪魔と彼に応じる社会につまり下層民の群衆又はこの世の陰謀に対する強いとしています。のにすべての前述の物は物理的に生き残る事を保証しません。多くの預言者や先生やバプテスマのヨハネやイエス・キリスト自身は社会に物理的に殺されました。しかしその希望は楽しく人生を生きる事を保障する、そして自分が死ぬ番の時に、疑念や悔悟に悩まされることなくが、希望と信仰を持って死を迎えます。はい、多くの預言者と先生は社会に殺されたが、そのような予定説に達しられた人は全然少ない。自分自身を捧げるために設計されていた人々が感じてあの事を知っていたから、彼ら自身は殉難を選んだ。誰もは彼らにその道で行く事を勧めなくて煽​ら​な​か​っ​たが、逆に、頻繁に人々はそれをしない事を求めていました。キリストが自己犠牲を拒否したでしょうのために使徒ピーターがキリストを煽​っ​た事を思い出すために十分なだったでしょう。「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とキリストは彼に答えました。社会が彼らの何か偶像のために自分を捧げる事にあなたを扇いだら、それは最も可能性悪魔からです。それは詐欺師たちがあなたを使用したい事がです。しかしお金ではなく被災者の命が奪っている詐欺師のこの種類は特別です。それら被災者は彼らと飼い主たちに勢力と野心の糧を与えている。あなたが彼らを譲ったら、あなたはあなたが神にではなく、悪魔に仕えたでしょう事のためにたくさんの機会 を持っています。自分自身を捧げる道があなたの予定説だったら、あなた自身はそれを感じます、あなた自身は武器を探して対決したい、そして誰もはあなたを扇がないが、むしろ人々は妨げて、あなたがそれをしなかったでしょうのために求めます。
          今私達は主な話題に戻ります。しかし、私たちが信じなければならないことは何ですか。どんな宗教がもっと正しいですか。すべての宗教はほぼ正しいです、先生たちと預言者たちが同じ唯一の神と同じ勧められる生き方と同じ戒について話していましたから。宗教的憎悪への扇動者が利用するあの多様な版は場所と時間と説教の水準だけに依存しています。
          簡単な事例見て下さい。どこに聖書であたかも複数の妻を持ってはいけません事を書かれるか。 しかしキリスト教徒が近所のムスリムを責めている、彼が四人の妻を持っているから場合は可能です。しかしこの場合はムスリムが大丈夫だ、コーランが四人の妻を持つ事を許しているからが、キリスト教徒はこの境遇で罪を犯している、キリストの「人をさばくな。自分がさばかれないためである」と戒を犯されましたから。別の事例を見て下さい。ムスリムはクリシュナの弟子を責めている、彼が祈りの代わりに「ハレクリシュナ、ハレクリシュナ・・・」マントラを繰り返していますから。しかしモハメッド預言者は別国で数千年前説教していた先生クリシュナを知らない事が出来ます。あの時代にはインターネットや飛行機や列車がいませんでした。さまざま国々はとても異なる世界がでした。神と連絡のためにマントラを発音する方法をアラビアの国で紹介する事の意味がありませんでした、それが困難を挑発する事ができましたから。ムスリムやキリスト教徒たちは彼らにもっと理解されただ慣例的祈りにもっと慣れたが、マントラに慣れられただヒンズー人のためにその方法は便利なとなって信仰を強化しています。しかしモハメッドはクリシュナを先生と見なす事やマントラを発音している事を全然禁じませんでした。アッラーフの道はそう位多くて位さまざまだ、一人がさえ天才やさえ預言者とだったら、彼はすべての道について伝えてすべての道を教える事が出来ませんでしたでしょう、千年ではさえ十分ではありませんでしたでしょうから。既に預言者の後は愚かな群衆がこの様に教義を歪めてすべてのそれら禁止を発明しています。どうして基督教は激しくて流血の宗教と見なされていましたか。キリストの「人をさばくな。自分がさばかれないためである」戒を中世で違反されていましたから。すべての宗教の信徒人々のために他の宗教の戒を責める事の代わりに自分の戒に心を向けるがより良い事はでしたでしょう。
          加わる事が出来たでしょう理想的な教義を地球で探さない事はいいです。そんな教義が存在したら、私達はほぼ理想的な社会や天国の相似を見たでしょう。しかし天国が地球になかったら、盲目的に続くたどるのためにあの社会は存在していません。世界の任意の宗教、つまり唯一の創造する神を説教している宗教は適切となりましたでしょう。なぜなら、あなたの永遠に運命の最終的決定はどんな社会にあなたが加わった事に全然依存していません。それは先祖たちの信仰ある事が出来る又は、あなたの個人的特徴を考慮して、他の何かはあなたに好きでした。あなたもどんな社会に全然加わらなくてもいいです。すべてはどれ位あなたの信仰が完璧だ事に依存します。キリストの言葉に心を向けって下さい:「あなたの信仰があなたを救ったのです」(ルカの福音8: 48)。つまり個人的信仰はですが、周囲の人々又は他の何か全然ではありました。改善するのために自分自身をどれ位努めていたあなたはでした、同じ位であなたの運命が永遠に嬉しいなる。そして「何の神への信じてもいいですか」質問は無意味です、神が唯一だけですから。神のなまえは栄光と尊重を表現していると、その時は大丈夫です。
          1つだけの誤解を解く事は必要です。先生又は預言者は大悟を達した人がです。彼はある意味で神との統一を得たから、そっな人々は印度で「バガヴァン」と呼んでいる、つまりと上帝です。しかしそれはあたかもこの人が神となったでしょう事を全然意味しませんでした。キリストを人間又は神と見なしともいいですか?あなた自身はこれで把握し試みてください。理解する事が出来なかったら、問題ではありません。あなたが把握する事が出来ない問題に心を向けらなかったら、そらはより良いです。なぜなら、あなたは両方場合でキリストを尊重する。人々の大多数がこの様に行動したら、それら二つの偉大な宗教はつまりイスラム教と基督教は和解されて結合される事が出来ましたでしょう。しかし社会は改善される事が出来ない。個人だけは改善される事が出来ます。個人となって、自分自身の道で行ってください。社会は電波干渉のようにだ、それがあなたを混乱させますから。
          私達は経典を持っていますそして一つではないが複数です。さまざま本が未だ聖書に収集されなかった時に、使徒パウロはすべての経典が役に立つです事を話した。したがって、あなたが読んでいる標準的又は典拠が疑わしい本が見なされる事を心配しなくてもいいです。私達もある意味で本と見なす事が出来ている自然界を持っています。私達も教科書のように見なす事が出来ている良心を持っています。これらすべてのものを包含して調査する事がとても難しいでしたら、そして自分自身を改善して開発してもっと聡明や正直となったなければならない。なぜなら、性的な衝動の次に一番多く強い衝動は好奇心つまり遊びへの欲求と目新しい事に対する熱烈な渇望でした。そえは自分自身に対する暴力から違います、新しい事を認識が喜びを齎していますから。時には実際に努力する必要がありますと言う事実にもかかわらず。上帝はあなたに念頭を与えた。彼もその念頭を開発するのために願いと能力を与えた。あなたが発達を拒否したらでしょう、それはタラントを隠すのために地を掘る事のように同じ罪となりましたでしょう(マシュー 25: 18)。実際に間抜けだ人々は心配しなくてもいいです、神が公平で彼らを厳しく判断しませんでしょうから。しかし健康な念頭を持っている人々は学んで発達するべきです、発達を拒否する罪は唯一の罪ですから。そしてこの罪はすべての他可能罪の理由です。神が私達に与えた能力を改善する事は私達の学校となる人生の目的と予定説です。可能な限り完璧となる努めて下さい、そしてあなたの信仰正しいとなるでしょう。あなたの信仰があなたを救うでしょう。アーメン。

英語で同じもの The same in English:  https://www.proza.ru/2012/09/26/2020

元のロシア語のテキスト The original Russian text:  https://www.proza.ru/2010/09/17/1004